炭を運んだ道が今も残る理由

五日市街道は、現在の杉並区梅里付近で青梅街道から分かれ、武蔵野台地を西へ進んで五日市方面へ向かう道筋です。この道の名前を聞いて、多くの人は「五日市という地名があったから」と考えるでしょう。五日市街道の発展には、江戸の薪炭需要が大きく関わりました。ただし、この道筋は薪炭だけで突然生まれたものではなく、伊奈宿や五日市宿の市、石材・木材の流通などが重なりながら、江戸と西多摩を結ぶ道として重要性を増していきました。

現在の五日市街道は、青梅街道から分かれて武蔵野台地を横断し、拝島・秋川方面を経て、五日市方面へ至る道筋として理解できます。この道筋を歩くと、平坦な武蔵野から次第に起伏が現れ、やがて山間の谷筋へと導かれていきます。この地形の変化こそが、街道の本質を物語っています。この道筋は、石材・木材・薪炭などを江戸へ運ぶ道として利用され、特に江戸の燃料需要が高まる中で、薪炭輸送路としての性格を強めていきました。

なぜこの道が「街道」と呼ばれるほど重要だったのか。そして、なぜ五日市という一つの町の名前を冠するのか。その答えは、江戸時代の燃料事情と山間部の経済構造を読み解くことで見えてきます。

江戸百万人の薪炭需要が生んだ物流網

江戸時代、人口百万を超える江戸の町を支えていたのは、膨大な薪炭の消費でした。煮炊き、暖房、風呂、商工業の燃料として、江戸市中では日々大量の木材が燃やされていたのです。この需要を満たすため、江戸周辺の山間部では組織的な薪炭生産が行われました。

特に多摩地域の山間部は、江戸から比較的近い距離にありながら豊富な森林資源を有していました。多摩地域の里山では、クヌギやコナラなどの雑木林を薪炭材として利用し、伐採後に切り株から再生する萌芽更新を活かした管理が行われました。こうした里山利用が、薪炭生産を支える基盤となっていました。

しかし、山で生産された薪炭を江戸まで運ぶには効率的な輸送ルートが必要でした。多摩地域の炭は、五日市街道だけでなく、甲州街道や青梅街道など複数の道筋を通じて江戸へ運ばれました。その中で、五日市方面から江戸へ向かう重要な道筋の一つが五日市街道でした。

市場町五日市の成立と街道の発展

薪炭の安定供給には、生産地と消費地を結ぶ中継拠点が必要でした。五日市は秋川流域に位置し、檜原や戸倉方面の山間部と、江戸方面へ向かう道筋を結ぶ場所でした。五日市は、周辺山間部で生産された薪炭や木材などが集まる市・宿として発展し、江戸方面へ向かう流通の拠点となっていきました。

五日市では、戦国期以来、五と十のつく日に定期市が開かれていたとされ、この市の存在が地名や町の性格と結びついて語られてきました。しかし、この定期市は単なる地域の物々交換の場ではありませんでした。五日市の市は、山間部の生産物と江戸方面の需要をつなぐ取引の場として機能しました。薪炭や木材は、買付人や馬方などを通じて江戸方面へ運ばれていきました。

街道沿いでは、薪炭や木材の荷をまとめる場所、運搬に関わる馬方や人足、商人たちの活動が、地域の経済を支えていたと考えられます。五日市の町場には、古い商家や蔵などが残る場所があり、かつて市や街道を中心に人と物が集まった歴史を感じさせます。秋川流域と街道が接する場所では、山間部からの物資が町場へ集まる地理的条件を想像できます。

街道筋に刻まれた輸送の工夫

五日市街道を実際に歩いてみると、薪炭輸送のための様々な工夫が地形に刻まれていることがわかります。武蔵野台地の平坦部では、荷車での効率的な輸送を可能にするため、できるだけ直線的なルートが選ばれました。武蔵野台地上では、五日市街道は比較的直線的な区間を持ち、町や新田村を結びながら西へ進みます。

しかし、多摩川を越えて山間部に入ると、道の性格は大きく変わります。急な坂道を避けるため、谷筋に沿って緩やかな勾配を保つルートが選ばれました。旧道と現在の道路は一部で変化していますが、五日市方面へ向かう道筋は、拝島・秋川方面を経て山間部の入口へ近づいていきます。地形に沿って進む道筋からは、重い荷を運ぶうえで勾配や川越えが重要だったことを考えられます。

街道沿いには、休憩や荷の積み替え、馬の手配などに関わる場所があったと考えられます。ただし、一里塚や茶屋が品質管理・代金決済を担ったと断定するには資料確認が必要です。現在も五日市街道沿いに残る古い建物の中には、こうした商業機能の痕跡を留めているものがあります。

歩いて確かめる(45〜60分)

五日市街道の性格を理解するには、実際に歩いてその変化を体感することが最も効果的です。五日市宿周辺を歩くなら、JR五日市線の武蔵五日市駅を起点にする方が自然です。

武蔵五日市駅から五日市の町場へ向かい、五日市郷土館や檜原街道方面を歩いてみましょう。この橋の上から上流方向を見ると、山間部から流れ出る秋川の谷筋がよくわかります。薪炭はこの谷筋を通って五日市の市場町へと運ばれてきました。五日市の町場では、古い商家や蔵の残る場所を見ながら、街道沿いに市や商業が発達した歴史を想像できます。

街道を東に向かって歩くと、道幅の変化に気づくでしょう。町場と山間部の入口では、道幅や周囲の建物、地形の印象が変わります。ただし、現在の道幅をそのまま江戸時代の道路計画の名残と見るには注意が必要です。

五日市郷土館では、五日市地域の歴史や山間部の暮らし、木材・薪炭などの流通に関する手がかりに触れられます。周辺の町場を歩くと、街道沿いに商業が発達した雰囲気を感じられます。建物の構造や配置からは、大量の薪炭を効率よく取り扱うための工夫を読み取ることができます。

最後に、街道が再び山間部へ向かう地点まで歩いてみてください。檜原街道方面へ進むと、五日市の町場から山間部へ入っていく地形の変化を感じやすくなります。ここから先の檜原・戸倉方面は、薪炭や木材の生産地と五日市を結ぶ地域として重要でした。この地形の変化こそが、五日市が物流拠点として発展した地理的必然性を物語っています。

1 秋川駅2 睦橋3 五日市街道沿い商家群4 五日市郷土館5 檜原街道分岐点

近代化と街道の変容

明治時代に入ると、五日市街道の役割は大きく変化しました。明治以降、鉄道・道路・燃料事情の変化により、五日市街道の物流上の役割は少しずつ変わっていきました。薪炭や木材の需要は続きましたが、輸送手段や流通の仕組みは次第に変化していきます。鉄道や自動車交通の発達により、木材・薪炭の輸送も街道中心から複数の交通手段を組み合わせる形へ変わっていきました。

昭和以降、自動車交通や多摩地域の市街化が進むと、五日市街道は都心側と多摩地域を結ぶ生活道路・幹線道路としての性格を強めていきました。ただし、その性格は江戸時代とは全く異なるものでした。多摩地域の住宅開発が進む中で、都心部と郊外を結ぶ生活道路として機能するようになったのです。現在の五日市街道沿いに住宅地や商業施設が連続しているのは、この時代の変化の結果です。

現在の五日市街道には、旧道の流れを受け継ぐ区間がある一方、近代以降の道路整備や基地周辺の変化で道筋が変わった区間もあります。道筋が現在も使われていることは、地形や集落の配置に沿った道が、時代を超えて交通の軸になりやすいことを示しています。新宿から五日市まで、現在でもこの街道が重要な交通路として機能し続けているのは、江戸時代の道路計画の優秀さを示しています。

街道名に込められた歴史の重層性

五日市街道という名称には、単に終点の地名を冠したという以上の意味が込められています。この道が「五日市街道」と呼ばれるのは、五日市という市場町が単なる通過点ではなく、江戸の都市生活を支える物流システムの重要な結節点だったからです。

街道名は通常、主要な目的地や通過する重要な地点の名前を取ります。五日市街道は、東海道や甲州街道のような幕府の主要街道とは性格が異なりますが、江戸と西多摩を結ぶ地域の重要な道筋として認識されていました。それは五日市という町の政治的重要性ではなく、江戸の日常生活に不可欠な燃料供給を担う経済拠点としての重要性だったのです。

現在、五日市街道を車で走る人の多くは、この道の名前の由来を深く考えることはないでしょう。しかし、道路標識に記された「五日市街道」の文字は、江戸百万人の生活を支えた物流システムの記憶を今に伝えています。街道沿いの風景は大きく変わりましたが、道筋そのものが歴史の証人として機能し続けているのです。

現代の私たちが何気なく使っているこの道には、江戸時代以来、山間部の木材・薪炭・石材などの資源と、都市側の需要を結んできた地域流通の記憶が重なっています。五日市街道の由来を知ることは、現代の都市と自然の関係を考える上でも重要な示唆を与えてくれます。

参考文献・出典