青空に向けて23センチの矢が舞った日
1955年4月12日、東京・国分寺で全長23センチのペンシルロケットが水平に発射されました。全長23センチ、重さわずか200グラムの「ペンシルロケット」が、日本初の人工衛星打ち上げへの第一歩を刻んだ瞬間でした。この実験を指揮したのが、後に「日本の宇宙開発の父」と呼ばれる糸川英夫です。
糸川がなぜ国分寺を実験場に選んだのか。この問いに答えるには、単に「空き地があったから」では足りません。戦後復興期の東京近郊で、ロケット実験という前例のない試みを実現するには、地理的条件と人的ネットワーク、そして時代の制約が複雑に絡み合った条件が必要だったのです。国分寺に残る痕跡を辿ると、日本の宇宙開発がいかに地に足のついた試行錯誤から始まったかが見えてきます。
航空技術者から「ロケット屋」への転身
糸川英夫は元来、航空機の設計者でした。戦時中は中島飛行機で戦闘機「隼」の設計に携わり、終戦と同時に航空機の研究開発が禁止されると、東京大学で超音速流体力学の研究に転じます。しかし糸川の関心は次第に、大気圏を超えた宇宙空間へと向かっていきました。
昭和29年、糸川は東大生産技術研究所でロケット研究に着手します。ところが当時の日本には、ロケット実験のノウハウも設備もありません。まして固体燃料ロケットの燃焼実験となれば、爆発の危険を伴います。大学構内での実験は到底不可能でした。
糸川が求めたのは、都心からアクセスしやすく、かつ周囲に民家が少ない実験場でした。さらに重要だったのは、実験を支援してくれる地元の理解と協力です。戦後10年、復興への意欲に満ちた時代とはいえ、得体の知れない「ロケット実験」を受け入れてくれる場所は限られていました。
国分寺が持っていた三つの条件
糸川が国分寺に着目したのは、偶然ではありませんでした。この地には、ロケット実験を可能にする三つの条件が揃っていたのです。
第一に地理的条件。実験は、国分寺市本町一丁目にあった南部銃製造所跡、現在の早稲田実業学校付近で行われました。既存の銃器発射場を活用できたことが、水平発射実験を行ううえで重要でした。中央線で都心から約1時間という距離は、頻繁な実験通いにも現実的でした。
第二に人的ネットワーク。糸川の実験を支えたのは、地元の理解ある人々でした。実験の実現には、研究チームだけでなく、実験場所を提供・利用できる環境と周辺への配慮が必要でした。戦後復興の象徴として、最先端の研究を町に誘致することに誇りを感じていたのです。
第三に時代的な追い風。昭和30年代初頭は、日本が科学技術立国を目指し始めた時期と重なります。敗戦で失った技術的威信を回復しようという機運の中で、ロケット研究は未来への希望を体現するプロジェクトでした。国分寺の人々にとって、糸川の実験は単なる研究活動ではなく、日本再生の象徴だったのです。
畑の中の発射台から宇宙への第一歩
実際の実験は、驚くほど素朴な環境で行われました。実験では、全長23センチの小型ロケットをランチャーから水平に発射し、飛行データを収集しました。試射は複数日にわたって行われ、機体の形状や推薬量を変えながらデータが蓄積されました。
ペンシルロケットの水平発射実験が行われたのは、現在の国分寺市本町一丁目、南部銃製造所跡にあたる場所でした。現在は早稲田実業学校の敷地周辺として知られています。全長23センチの小さなロケットは、水平発射で約50メートル飛行し、見事に着火・燃焼・飛行の基本動作を実証しました。この成功が、その後の垂直発射実験、さらには大型ロケット開発への道筋を開いたのです。
糸川は実験の度に、周辺住民への説明を欠かしませんでした。「今日は小さな花火のようなものを飛ばします」「将来は人工衛星を打ち上げるための研究です」。地道な対話の積み重ねが、日本初の宇宙実験を支えていました。
実験場から見える戦後復興の風景
国分寺でのロケット実験は、戦後日本の科学技術復興を象徴する出来事でもありました。1950年代の国分寺には、都市化が進む前の武蔵野の面影も残っていました。ただし、実際の水平発射実験は、農地ではなく、南部銃製造所跡の施設を活用して行われました。中央線沿線の宅地開発が本格化する前の、のどかな武蔵野の面影を残していたのです。
しかし、この「のどかさ」こそが実験を可能にした条件でした。都市化が進んでいれば、危険を伴うロケット実験は不可能だったでしょう。逆に交通の便が悪すぎても、頻繁な実験は困難でした。国分寺は、都市と農村の境界にある絶妙な立地条件を備えていたのです。
糸川の実験チームが使った実験場の多くは、現在では住宅地に変わっています。しかし当時の地形や道路の配置は、今も国分寺の街並みに痕跡を留めています。武蔵野台地の平坦な地形、碁盤目状に区画された農地の名残、そして中央線という都心への動脈——これらすべてが、日本の宇宙開発史の出発点を物語っています。
歩いて確かめる(45〜60分)
国分寺駅北口から徒歩で、糸川英夫のロケット実験の痕跡を辿ることができます。
国分寺駅北口から、現在の早稲田実業学校周辺を目指します。この一帯が、1955年にペンシルロケット水平発射実験が行われた南部銃製造所跡にあたります。住宅地となった今も、武蔵野台地の平坦な地形と、碁盤目状の道路配置に当時の面影を感じることができます。
最後に国分寺駅周辺に戻り、中央線という交通インフラの重要性を確認します。糸川たちが東大から頻繁に通った実験ルートを、現在も同じ中央線で体験することができます。都心からの距離感、武蔵野台地の地形、そして地域社会との関係——これらすべてが重なって、日本初のロケット実験が実現したのです。
小さなロケットが開いた無限の空
糸川英夫が国分寺で水平発射された23センチのペンシルロケットは、1970年の日本初の人工衛星「おおすみ」打ち上げ成功へとつながっていきました。日本が世界で4番目の人工衛星打ち上げ国になる快挙の出発点が、国分寺の畑だったのです。
現在の国分寺を歩くと、住宅地に変わった実験場の面影を直接見ることは困難です。しかし地形や道路配置、そして中央線という都市インフラに、当時の条件を読み取ることができます。より重要なのは、未知の技術への挑戦を受け入れた地域社会の寛容さです。戦後復興への意欲と科学技術への期待が、小さなロケット実験を支えていました。
糸川が国分寺を選んだのは、単なる偶然ではありませんでした。都市と農村の境界、交通の便と実験の安全性、地域社会の理解と科学技術への期待——これらの条件が重なった場所だからこそ、日本の宇宙開発は始まることができたのです。国分寺の街を歩きながら、小さなロケットが開いた無限の可能性に思いを馳せてみてください。

