勝海舟が渡った品川の海——幕末の決断と海辺の街
海舟が選んだ出発点
品川の海を見つめていると、一つの疑問が浮かびます。なぜ勝海舟は、数ある江戸の港の中でも品川を拠点として選んだのでしょうか。慶応4年(1868年)、江戸城の無血開城を実現した海舟が西郷隆盛との会談を行った際も、彼は品川の海防の重要性を深く理解していました。この理解には、品川という場所が持つ特別な性格が深く関わっています。
品川は、江戸時代を通じて東海道第一番目の宿場町として栄えた場所でした。日本橋を起点とする東海道五十三次において、旅人が最初に宿をとる重要な拠点だったのです。しかし海舟にとって品川が重要だったのは、宿場町としての機能だけではありません。品川は江戸湾に面した天然の良港であり、同時に江戸防衛の最前線でもありました。黒船来航以降、海防の必要性が高まる中で、品川の戦略的価値は飛躍的に高まったのです。
今、品川浦に立ってみると、東京湾の向こうに房総半島の影がかすかに見えます。この視界の広がりこそが、海舟が品川を重視した理由の一つでした。江戸湾の入り口を見渡せる立地は、海防を考える上で欠かせない条件だったのです。
海防の最前線となった品川
嘉永6年(1853年)のペリー来航は、品川の運命を大きく変えました。黒船が浦賀に現れた翌年、幕府は江戸湾防衛のため品川沖に人工島を築く大事業に着手します。これが品川台場の建設でした。
台場建設を指揮したのは、伊豆韮山代官の江川英龍でした。しかし、この事業に深く関わったのが若き日の勝海舟です。海舟は安政2年(1855年)から長崎海軍伝習所で西洋の海軍技術を学んでいましたが、品川台場の建設にも技術的助言を行っていました。海舟にとって品川は、単なる港ではなく、日本の海防を考える実践の場だったのです。
台場建設は急ピッチで進められました。第一台場から第六台場まで計画され、実際に完成したのは第一、第二、第三、第五、第六台場でした。これらの台場は品川沖約500メートルの海上に築かれ、大砲を据えて江戸湾に侵入する外国船を迎え撃つ要塞として機能する予定でした。
興味深いのは、台場建設が品川の地形そのものを変えたことです。台場建設のための石材は、主に伊豆半島から運ばれましたが、一部は品川周辺の丘陵からも採取されました。現在の品川区内に残る急な坂道の中には、この石材採取によって生まれた地形も含まれています。海防という国家的事業が、街の骨格そのものを作り変えたのです。
海舟の足跡を追う
勝海舟と品川の関係は、台場建設だけにとどまりません。海舟は海軍活動において品川の重要性を深く認識し、この地の海防体制の構築に尽力していました。現在の品川区南品川付近からは、建設中の台場がよく見えたといいます。
安政6年(1859年)、海舟は咸臨丸の艦長として太平洋横断を成し遂げますが、この偉業は品川沖の海防体制とも密接に関連していました。品川の海は、海舟にとって世界への窓口だったのです。咸臨丸が出発する際、多くの見送りの人々が品川の海岸に集まったという記録が残っています。
幕末の動乱期、海舟は品川の戦略的重要性を踏まえて様々な政治工作を行いました。慶応4年(1868年)3月、江戸城無血開城を決める西郷隆盛との会談では、海舟の海防に関する深い見識が発揮されました。この時海舟は、品川沖の台場を含む江戸湾全体の防衛構想を背景として、西郷との運命的な会談に臨んだのです。
品川が海舟の活動において重要な意味を持った背景には、この地の交通の便があります。品川は東海道の要衝であると同時に、江戸湾海運の拠点でもありました。陸路でも海路でも、江戸の内外を結ぶ結節点だったのです。海舟のような政治家にとって、情報収集と人脈形成の場として、これほど適した場所はありませんでした。
埋め立てが消した海際の記憶
現在の品川を歩いていると、かつてここが海に面した街だったことを実感するのは容易ではありません。明治以降の埋め立てによって、海岸線は大きく東に移動したからです。しかし、注意深く街を観察すると、海際だった時代の痕跡を発見することができます。
旧東海道を歩いてみると、微妙な高低差に気づきます。品川宿の中心部は、わずかに高台になっているのです。これは、海岸近くでありながら高潮の被害を避けるため、自然の微高地に宿場が形成されたことの名残です。江戸時代の品川宿は、海との適度な距離を保ちながら、海運の利便性を享受していたのです。
品川神社の境内からは、かつて東京湾が一望できました。現在でも神社の高台に立つと、ビルの隙間から東京湾の一部を望むことができます。この眺望こそが、品川が海の街だった証拠の一つです。海舟も、この高台から品川沖の台場建設の進捗を眺めていたかもしれません。
台場跡は現在、お台場海浜公園として整備されていますが、第三台場跡には当時の石垣が残されています。この石垣に使われた石材の一部は、品川周辺から切り出されたものです。つまり、品川の丘が削られて海上の要塞となり、それが現在も東京湾に浮かんでいるのです。地形の改変を通じて、品川と台場は物理的につながっているのです。
歩いて確かめる(45〜60分)
品川駅高輪口から出発し、まず旧東海道に向かいます(10分)。第一京浜国道を渡ると、道幅が急に狭くなる地点があります。ここが旧東海道の始まりです。江戸時代の街道の幅がそのまま残っているため、現代の道路とは明らかに性格が違うことが分かります。
北品川商店街を南に向かって歩きながら、品川宿の面影を探します(15分)。商店街の両側に残る古い建物の中には、宿場町時代の間口の狭さを受け継いでいるものがあります。品川神社に立ち寄り、境内から東の方角を見てください。ビルの向こうに見える東京湾の水面が、かつて海舟が眺めた海の延長線上にあります。
品川浦船だまりに向かいます(10分)。現在も漁船が係留されているこの場所は、江戸時代から続く品川の海運拠点です。護岸の形状や水面の高さから、埋め立て以前の海岸線がどこにあったかを想像してみてください。海舟が江戸城無血開城という政治的決断を行う際に重視したのも、この延長線上の海域でした。
最後に、りんかい線で新橋方面に移動し、お台場海浜公園の第三台場跡を訪れます(15分)。台場跡の石垣は、品川沖の海防を担った当時の姿を今に伝えています。台場から品川の街を振り返ると、海舟がこの海域をどのような視点で見ていたかが体感できます。品川の街と台場跡、そして東京湾を一体として眺めることで、幕末の海防構想の全体像が見えてきます。
海が結んだ品川と世界
勝海舟が品川を重視した理由は、この地が持つ多層的な性格にありました。宿場町としての交通の便、天然の良港としての地理的優位性、そして江戸防衛の要衝としての戦略的価値。これらの要素が重なり合って、品川は幕末日本の海への窓口となったのです。
海舟の活動を通して見ると、品川という場所の本質が浮かび上がります。それは、日本と世界を結ぶ接点としての役割でした。咸臨丸による太平洋横断も、江戸城無血開城という政治的決断も、すべて品川の海防体制と深く関わっていたのです。海舟にとって品川は、単なる一地域ではなく、日本の未来を構想するための重要な舞台でした。
現在の品川を歩くと、埋め立てによって海は遠くなりましたが、街の骨格には海との関係が刻まれています。旧東海道の微妙な高低差、品川神社からの眺望、そして東京湾に浮かぶ台場跡。これらの痕跡をつなげて歩くことで、海舟が見た品川の海が立ち上がってきます。幕末の決断者たちが重視した海は、形を変えながらも、今なお品川の街と世界を結び続けているのです。


