農村だった世田谷が「住宅地の代名詞」になった理由
世田谷区と聞いて多くの人が思い浮かべるのは、閑静な住宅街、おしゃれなカフェ、緑豊かな街並みでしょう。しかし、この「住宅地の代名詞」としての世田谷の姿は、現在のイメージは戦後に強まったものですが、その前提は戦前から形成されていました。江戸時代から明治・大正期まで、世田谷は典型的な農村地帯でした。では、なぜこの地域が東京の代表的な住宅地へと変貌を遂げたのでしょうか。
その答えは、世田谷の地理的条件と、近代日本の都市化の波が重なった結果にあります。武蔵野台地の南端に位置する世田谷は、多摩川に向かって緩やかに傾斜する台地上にあり、水はけがよく住環境に適していました。しかし、それだけでは説明がつきません。同様の条件を持つ地域は他にもあったからです。世田谷が特別だったのは、江戸城下町からの距離感——近すぎず遠すぎない絶妙な位置にあったことと、明治以降の交通網整備のタイミングが重なったことでした。
江戸近郊の農村——大根と麦の風景
江戸時代の世田谷は、幕府の直轄地である天領と旗本領が混在する農村でした。多摩川の河岸段丘上に広がる台地は、江戸への野菜供給基地として機能していました。世田谷では、大蔵大根をはじめとする近郊農業が発達しました。現在の世田谷区内には、用賀、瀬田、等々力といった地名が残っていますが、これらはいずれも農業や地形に関連した地名でした。
用賀の地名由来には諸説ありますが、世田谷区公式では不明とされています。この地域では用水路が農業を支えていました。また、等々力の名前は「轟く滝」を意味し、多摩川の支流である谷沢川が武蔵野台地を削って作った渓谷の滝音に由来します。これらの地名からは、水と台地という地理的条件を活かした農業が営まれていた様子が読み取れます。
江戸時代後期には、世田谷の農村は江戸市中への野菜供給において重要な役割を担っていました。大山道(現在の国道246号線の前身)や品川道といった街道沿いに農村集落が点在し、馬車や人力で野菜を江戸へ運んでいました。しかし、この時代の世田谷は、あくまで「江戸の後背地」であり、独立した都市的性格は持っていませんでした。
明治維新と交通革命——私鉄の到来
世田谷の運命を決定づけたのは、明治時代後期から大正時代にかけての私鉄建設ラッシュでした。1907年(明治40年)に玉川電気鉄道(玉電)が渋谷から玉川まで開通し、続いて小田急線、東急線が相次いで開業しました。これらの私鉄は、単なる交通機関ではありませんでした。沿線開発という新しいビジネスモデルを持ち込んだのです。
特に重要だったのが、五島慶太率いる東京急行電鉄(現在の東急)の戦略でした。五島は「電車を走らせ、沿線に住宅地を開発し、商業施設を誘致する」という一体的な開発手法を導入しました。これは、単に農地を宅地に転用するだけでなく、計画的な街づくりを意味していました。世田谷区内では、成城や玉川地域の住宅地開発が代表例として挙げられます。
しかし、この時期の開発はまだ限定的でした。大正時代の世田谷は、住宅地として開発された一部の地域と、依然として農業が主体の地域が混在していました。本格的な住宅地化は、関東大震災後の復興期と戦後の高度経済成長期を待つことになります。
関東大震災と郊外移住——「安全な住宅地」としての発見
1923年(大正12年)の関東大震災後、郊外住宅地への関心が高まる中で、世田谷の住宅地化も進みました。震災で都心部の住宅を失った人々が、台地上の郊外へと移住先を求めたのです。
震災後の復興期には、世田谷各地で住宅開発が本格化しました。世田谷区内の事例としては、成城や玉川地域を中心に扱う方が自然です。成城には成城学園が設立され、教育環境の充実も図られました。こうした計画的住宅地は、「文化的な生活」を提供する場として設計されました。
戦前・戦後を通じて、世田谷には文化人も多く移り住みました。彼らの存在は、世田谷を「文化的な郊外住宅地」として印象づけることに貢献しました。現在でも世田谷区内に多くの美術館や文化施設があるのは、この時代の文化的土壌が基盤となっています。
戦後復興と高度成長——住宅地の完成形
戦後の世田谷は、日本の高度経済成長とともに急速な住宅地化を遂げました。1950年代から1970年代にかけて、農地の宅地転用が大規模に進行し、現在の世田谷の基本的な姿が形成されました。この時期の特徴は、計画的な大規模開発から、個別の宅地分譲へと開発の主体が移ったことです。
戦前の成城のような統一的な街並みではなく、より多様な住宅が混在する街並みが生まれました。しかし、これが結果的に世田谷の魅力となりました。高級住宅地もあれば、庶民的な住宅街もある。商店街もあれば、閑静な住宅地もある。この多様性が、「世田谷らしさ」を形成したのです。
戦後、世田谷の農地は大きく減少しましたが、現在も一部では都市農業が続いています。大蔵大根など伝統野菜の栽培を続ける農家も存在し、都市の中に農の記憶が息づいています。
歩いて確かめる(45〜60分)
世田谷の歴史的変遷を実感するには、世田谷区内で異なる時代に開発された地域を歩き比べることが効果的です。
コースA:成城学園前駅周辺 成城学園前駅で降り、関東大震災後から開発された計画住宅地の街並みを観察してください。整然とした街路と豊かな緑、落ち着いた住宅地の雰囲気から、沿線開発の思想が読み取れます。
コースB:用賀〜等々力渓谷 用賀駅を起点に、かつての農業地帯の地形をたどりながら等々力渓谷へ向かうコースです。等々力渓谷は世田谷区内で唯一の自然渓谷で、都市化の波の中でも保存された貴重な空間です。渓谷内を歩くと、かつての世田谷の自然環境を体感できるとともに、なぜこの地域が住宅地として選ばれたかの地理的条件を理解できるでしょう。
現在に読める「郊外」の原型
現在の世田谷を歩くと、日本の「郊外」という概念の原型が見えてきます。それは、都心への通勤利便性と住環境の良さを両立させた「理想的な住宅地」というイメージです。しかし、この「理想」は決して自然発生的に生まれたものではありません。江戸時代の農業基盤、明治以降の交通網整備、関東大震災後の郊外移住の高まり、戦後の高度成長という複数の条件が重なって形成されたものです。
世田谷の街を歩いていると、この歴史の重層性を随所で感じることができます。農業用水路の名残、かつての街道筋に沿って発達した商店街、計画的に開発された住宅地の整然とした街並み、そして農地転用で生まれた不規則な街区割り。これらすべてが、世田谷という「郊外」の複合的な性格を物語っています。
世田谷は、日本の郊外住宅地を考える代表的な事例の一つです。多くの美術館、劇場、ギャラリーが点在し、個性的な商店街が各地に形成されています。農村時代からの地域コミュニティの継承と、近代以降の多様な住民層の流入が積み重なって、現在の世田谷の姿があります。


