巨大古墳が選んだ立地の謎
大阪平野を歩いていると、住宅地の向こうに突然現れる巨大な森に驚かされます。これが仁徳天皇陵古墳——全長486メートル、日本最大の前方後円墳です。なぜこれほどの規模の古墳が、この場所に築かれたのでしょうか。
古墳時代の5世紀、現在の大阪平野は今とまったく異なる姿をしていました。古代の大阪平野には広い低湿地・内湾的環境があり、巨大古墳の多くはその周辺の微高地や台地縁辺に築かれました。百舌鳥・古市古墳群の立地を現代の地図で見ると、一見ランダムに配置されているように見えます。しかし古代の地形を重ね合わせると、多くの巨大古墳が水辺に接した台地縁辺部に築かれていることが分かります。
この立地には、地形や水辺環境を重視した王権側の選択があったと考えられます。大阪平野の水辺環境は、古代王権の広域交流を支える条件の一つだった可能性があります。
河内の水辺環境と古代王権
古墳時代の大阪平野には、上町台地の東側に「河内潟」と呼ばれる内湾的な環境が広がっていました。淀川と大和川が運ぶ土砂によって次第に埋め立てられていきましたが、5世紀頃はまだ広い水面が残っていたと考えられています。
大阪平野の水辺は、瀬戸内海側と内陸部を結ぶ水陸交通の結節点として重要だったと考えられます。古代王権が朝鮮半島との交流を進めた時代背景の中で、大阪平野の地理的条件は重要でした。
古墳群周辺の考古資料からは、広域交流を示す遺物が知られています。百舌鳥・古市古墳群は、こうした古代の広域性を体現する遺跡群と言えます。
水辺に築かれた権力の象徴
仁徳天皇陵古墳・応神天皇陵古墳は、それぞれ大阪平野の水辺地形を意識した立地に築かれたと考えられます。仁徳天皇陵古墳は上町台地の縁辺部、応神天皇陵古墳は古市の台地上に位置し、いずれも水辺に接した微高地を選んでいます。
巨大古墳は、王権の威信を示す巨大モニュメントであり、その立地には水辺地形への意識もあったと考えられます。最大規模の仁徳天皇陵古墳(墳丘長486m)と、古市古墳群最大の応神天皇陵古墳(墳丘長約425m)は、古代王権の規模と広域的な影響力を示しています。
巨大古墳の築造には、広域からの資材調達と大規模な動員が必要だったと考えられます。これだけの規模の工事を組織できた王権の統治力が、古墳群全体の規模に表れています。
現代の地形に刻まれた歴史の蓄積
現在の堺市や羽曳野市を歩くと、古墳周辺の道路や水路に規則性があることに気づく場合があります。現在の道路や水路の規則性には、古墳時代以後の土地利用の蓄積も重なっています。
堺市博物館では、古代から中世にかけての地域の変遷について学ぶことができます。古墳群の立地と古代の地形について詳しく解説されており、現代の住宅地に埋もれた中小古墳の分布も含めて、古墳時代の土地利用を理解する手がかりが得られます。
歩いて確かめる
45〜60分で歩くなら、「百舌鳥コース(百舌鳥駅〜仁徳天皇陵古墳〜堺市博物館)」と「古市コース(応神天皇陵古墳周辺)」に分けた方が自然です。
コースA:百舌鳥(45〜60分) JR百舌鳥駅から徒歩で仁徳天皇陵古墳の外周を巡ると、古代の地形感覚を体感できます。古墳の西側に立つと、かつて低湿地が広がっていた方向を見渡せる位置にあることが分かります。現在は住宅地となっていますが、微妙な高低差が古代の地形の名残を物語っています。堺市博物館では、古墳群の立地と古代の地形について詳しく学ぶことができます。
コースB:古市(45〜60分) 近鉄古市駅周辺から応神天皇陵古墳の外周へ向かうコース。古市側では、古墳群と周辺地形の関係を意識しながら歩くと理解が深まります。複数の大型古墳が近接して存在する古市古墳群の密度感は、百舌鳥とは異なる体験を与えてくれます。大阪府立近つ飛鳥博物館もあわせて訪ねると、古墳時代全体の流れを俯瞰できます。
現代に息づく古代王権の記憶
河内潟は奈良時代以降に次第に陸化し、現在では完全に姿を消しています。しかし、その記憶は大阪平野の地形に刻まれています。
百舌鳥・古市古墳群が2019年に世界遺産に登録されたことで、改めてその歴史的価値が注目されています。重要なのは、個々の古墳の規模だけでなく、古墳群全体が示している古代の政治的スケールです。百舌鳥・古市古墳群を古代地形と重ねて見ると、巨大古墳の立地と古代王権の広域性を考える手がかりになります。
古墳を単体で見るのではなく、古代の水辺地形と重ね合わせて眺めるとき、1500年前の古代王権の構想が見えてきます。それは国際的で先進的な政治システムの一面を持っていたと考えられています。



