江戸時代を代表する大規模災害「宝永大噴火」とは
宝永4年11月23日(1707年12月16日)、富士山が噴火した。有史以来、富士山が最後に噴いた日である。
噴火の特徴は、溶岩が流れなかったことだ。代わりに、膨大な量の火山灰と軽石が噴出し続けた。噴火は断続的に12月末まで続き、その間、火口から100キロメートル以上離れた江戸にも灰が降り積もった。川崎では5センチメートルに及ぶ降灰が記録されており、江戸の東側地域はとりわけ厚い灰に覆われた。
当時の史料には、噴火当日の江戸の様子がこう記されている。「昼なお暗く、灯火を点じて往来す」。
昼間なのに、人々は明かりを手に歩いた。それが、この噴火が江戸の町に刻んだ最初の記憶だった。
灰が降る都市——じわじわとした静かな破壊
溶岩は来なかった。火砕流も来なかった。だからこそ、宝永噴火の被害はわかりにくい。それは、炎ではなく灰による、じわじわとした都市機能の鈍化だった。
空が変わる。太陽が見えるのに薄暗い。光が灰色にくすんだ空から差し込み、昼と夜の境目があいまいになる。そのような空が、数日にわたって江戸を覆い続けた。
灰は屋根に積もり、重さで建物を圧迫する。往来に積もった灰は、雨が降れば泥に変わり、足を取られ、荷車の車輪を埋める。乾けば舞い上がり、目と喉を刺す。人の往来が鈍る。荷が動かなくなる。商いのリズムが乱れる。
噴火という劇的な出来事ではなく、灰が積もるという地味な事態が、大都市の日常をじわじわと蝕んでいく。宝永噴火は、そのような種類の災害だった。
日本橋という想像の場所
江戸の商業の心臓部、日本橋。五街道の起点として物資と人が集まり、魚河岸が並び、商人が行き交ったこの場所に、灰が降った。
宝永噴火当時、日本橋はまだ木橋だった。橋の上も、橋の下の川面も、灰に覆われた。
商いが停まったとは言えない。しかし、灰が降る中でも動こうとする人と、動けなくなる物資と、重くなる空気があった。平時には当然のように流れていた人・荷・情報が、灰という静かな異物によって乱された。その不便が何日続いたか、史料は多くを語らない。しかしその光景は、現代の日本橋の上に立つとき、石畳の下に想像できる歴史の一層として静かにある。
農地への打撃と江戸の食
都市への影響にとどまらず、関東平野の農地にも灰が積もった。農地に降り積もった火山灰は作物の生育を阻害し、噴火直後の数年間は凶作が続いた。米価の高騰は、食料を関東一円の農村に依存していた江戸市民の生活を直撃した。
宝永噴火の被害がとりわけ深刻だったのは、噴火の49日前に同年最大の地震「宝永地震」(推定M8.6)が起きていたためでもある。地震で傷んだ建物は、降灰の重さに一層もろくなっていた。二重の災害が重なった江戸の冬だった。
現代に残る噴火の記憶を歩く
江戸の各所で行われた遺跡調査では、宝永噴火に由来する降灰層が地中から確認されている。目には見えないが、現代の東京の地面の下には、1707年の灰が今も眠っている。
BYGOのルートで日本橋周辺や皇居外苑を歩くとき、意識してほしいのは「距離」だ。富士山は、ここから直線で約100キロメートル離れている。その遠さにもかかわらず、火山灰は江戸の空を覆い、昼を夜に変えた。
現代都市・東京もまた、富士山の噴火リスクを抱えた都市である。気象庁は富士山をいつ噴火してもおかしくない活火山として位置づけており、大規模噴火が起きた場合の降灰シミュレーションも公表されている。
300年前の江戸の人々が見上げた灰色の空を、今の東京で想像すること。それが、この街を歩く意味の一つになる。

