海だった場所に立つ
有明の高層ビル群から東京湾を眺めていると、ここがかつて海だったという事実が信じがたく思えてきます。現在の有明周辺は、江戸時代には江戸湾の海面・遠浅の海域にあたる場所でした。足元の地面から海面まで、わずか数メートルしかありません。しかし、この平坦な地形こそが、埋立によって形づくられた土地であることを物語っています。東京湾岸では江戸初期から埋め立てが進みましたが、有明という町の成立は、主に昭和期の10号埋立地造成と戦後の臨海部開発に重なります。江戸湾・東京湾奥の海の利用から、昭和期の埋立、そして現代の臨海副都心まで、有明は東京湾岸開発の変化を読むうえで重要な場所です。なぜこの場所が選ばれ、どのような変遷を遂げてきたのでしょうか。
現在の有明エリアは、その大部分が人工的に造成された土地です。江戸初期には、日比谷入江など現在の都心近くまで海や入江が入り込んでいました。お台場、豊洲、有明はいずれも埋立地ですが、造成の時期や役割はそれぞれ異なります。この事実を念頭に置いて街を歩くと、平坦な地形、規則正しい道路配置、運河の直線的な形状など、自然地形とは異なる人工的な特徴が次々と目に入ってきます。
海苔の海から始まった開発史
江戸湾の遠浅の海や干潟では、品川・大森・深川周辺などで海苔養殖が発展しました。有明周辺も、のちに埋め立てられる東京湾奥の海域に含まれていました。有明という地名は、「有明の月」など、夜明けに残る月のようすから名づけられたとされています。江戸湾の干潟は、潮の満ち引きによって露出する遠浅の地形が海苔の生育に適しており、東京湾奥の広い海域で海の利用が営まれていました。
海苔養殖は江戸の食文化と密接に結びついていました。江戸前寿司の海苔巻き、蕎麦の薬味としての海苔など、江戸庶民の食卓に欠かせない食材として重宝されました。養殖業者たちは干潟の使用権を巡って複雑な取り決めを結び、季節ごとの作業サイクルに従って海苔の収穫を行っていました。現在の豊洲市場周辺も、かつては東京湾奥の海面にあたる場所でした。
江戸期には深川・砂村などで新田開発が進みましたが、有明の町域にあたる埋立は主に近代以降、特に昭和期の東京港整備と結びついて進みました。江戸湾の海の利用から、近代以降の港湾整備へと関心が移っていく流れを、この地域史の中に見ることができます。
近代化が描いた新しい海岸線
明治以降、東京港周辺では港湾機能の近代化や航路浚渫に伴う埋立が進みました。明治期には東京港全体の近代化が進みましたが、有明に直接つながる10号地の埋立は、昭和6年(1931年)からの東京港修築事業計画によって始まりました。
お台場は幕末の砲台場として築かれた人工島で、有明の10号埋立地とは時期も目的も異なります。関東大震災後には、震災瓦礫の処理も含めて豊洲などの埋立が進みました。一方、有明に直接つながる10号地の埋立は、昭和6年(1931年)から始まった東京港修築事業計画の中で進められました。この時期の埋立は、港湾整備と都市機能拡張の両面を持っていました。
埋立地の利用は時代ごとに変化しました。有明では、戦後には東雲ゴルフ場などとして使われ、のちにスポーツ・都市機能へ転換していきました。有明では、1980年代後半まで工業地や貯木場などの性格が残り、1990年代以降、臨海副都心開発の中で業務・展示・スポーツ・居住機能へと転換していきました。
臨海副都心という壮大な実験
1980年代末から1990年代にかけて、台場・青海・有明を含む臨海副都心の整備が進みました。バブル経済期の東京一極集中を背景に、都心機能の分散と国際業務機能の強化を目指した大規模開発が始まりました。この計画は、単なる埋め立て地の再開発を超えて、21世紀の東京のあり方を先取りする実験的な都市づくりとして位置づけられていました。
レインボーブリッジの建設(1993年開通)は、臨海副都心開発の象徴的な事業でした。それまで陸の孤島だった埋め立て地を都心部と直結することで、新しい都市拠点としての基盤が整いました。ゆりかもめは1995年に新橋〜有明間が開業し、2006年に有明から豊洲まで延伸しました。これらのインフラ整備により、有明は東京湾に面した埋立地から、都市機能を備えた新しい街へと変貌を遂げます。
現在の有明テニスの森は、スポーツ・レクリエーション機能を核とした土地利用の象徴です。2021年に開催された東京2020大会ではテニス会場となり、周辺の有明アリーナなども含め、有明一帯は大会会場が集まるエリアとなりました。一方、豊洲市場の開場は、日本橋魚河岸から築地市場へ受け継がれた東京の水産流通機能が、さらに湾岸の埋立地へ移った出来事として捉えられます。
歩いて確かめる(45〜60分)
45〜60分で歩くなら、有明テニスの森駅周辺に絞るのが現実的です。半日かけられるなら、新橋駅からゆりかもめに乗って臨海部へ向かうルートに広げることもできます。車窓の変化を追うと、都心部から埋立地・臨海部へ向かう地形と都市景観の変化を感じ取れます。
有明テニスの森駅で下車すると、まず目に入るのは周囲の平坦な地形です。自然の台地や丘陵とは異なる、人工的に造成された土地の特徴がよく分かります。テニスの森周辺を歩きながら、道路の直線的な配置、ブロック状の区画割り、運河や広い歩道など、計画的に設計された街の特徴を観察してみてください。特に、水辺沿いの歩道からは、埋立地に後から組み込まれた運河や防波施設の存在を感じ取ることができます。
半日コースとしてお台場海浜公園まで足を延ばせば、現在の海岸線と人工島の関係をより広い視点で確認できます。お台場の砲台跡は、幕末期に海上へ人工島を築いた軍事施設として、東京湾の人工地盤史を考える重要な手がかりです。レインボーブリッジを間近に見上げると、現代の臨海部開発が大規模なインフラ投資を伴っていたことも実感できます。
半日コースとして豊洲市場まで足を延ばせば、見学可能な範囲から現代の水産流通拠点としての機能の一端を知ることができます。市場の建物配置や交通アクセスは、埋め立て地の平坦な地形を活用した設計になっています。市場周辺の運河や道路配置を見ると、物流効率を重視した現代の湾岸開発の発想がよく表れています。
重なり合う時間の地層
有明を歩いていると、異なる時代の記憶が地層のように重なり合っていることに気づきます。東京湾奥の海苔養殖・港湾整備、昭和期の10号地埋立、戦後の貯木場やゴルフ場、1990年代以降の臨海副都心開発が、有明周辺には重なっています。それぞれの時代が求めた機能に応じて、同じ海辺が異なる姿を見せてきました。しかし、すべてに共通するのは、東京湾という水域との関係性です。
現在の有明が示すのは、埋め立てという行為が単なる土地造成を超えて、時代ごとの都市像を具現化する手段だったということです。東京湾奥の海の利用から、近代の港湾整備、そして現代の「海と陸の境界を再デザインする」発想まで、人間と自然の関係性の変遷が、この場所の変貌に刻まれています。
埋め立て地特有の平坦な地形は、過去の記憶を消去すると同時に、新しい可能性を生み出す白紙状態を提供してきました。有明の街並みを歩くとき、私たちは東京湾岸全体に積み重なった埋立と港湾開発の歴史を足元に感じることができます。海だった場所に立つということは、人間の営みが自然に働きかけ続けてきた歴史の上に立つということなのです。

