玉縄城
たまなわじょう
玉縄城は、神奈川県鎌倉市玉縄地域城廻(旧相模国鎌倉郡玉縄村)にあった日本の城(平山城)。甘縄城ともいう。永正9年(1512年)に北条早雲(伊勢盛時)により築かれたとされているが、それ以前から砦か小城があった可能性も考えられている。城の外堀が柏尾川と直結し、相模湾まで舟を繰り出すことが可能だった関係で水軍などを統括する重要拠点となった。さらに鎌倉に近いことから鎌倉の防衛という面があった。三浦氏滅亡後は安房里見氏に対する押さえ、また小田原城の守りとしての役割も担った。北条氏時代には、一門の重要人物が城主として置かれた。徳川政権下においても玉縄城は重要視され、家康側近の本多正信・水野忠守の居城となったが、慶長20年(1615年)の一国一城令を受けて元和5年(1619年)に廃城となった周囲の砦を含め、かつては広大な城域であった。1955年(昭和30年)頃までは比較的多くの遺構が残っていたようであるが、1960年以降、東急不動産の開発によりその多くが破却され、玉縄城趾には、1963年(昭和38年)に女子校の清泉女学院中学高等学校が誘致された。近年玉縄城の保存活動が行われ、史跡の指定を目指しているものの、住宅建設の折りに遺構が出てきても保存されるには至っていない。近年まで陣屋坂上の郭などに土塁が残っていたが、現在は宅地化により痕跡程度の土の高まりが見られる程にしか残っていない。
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