江戸の街道を歩いていると、「一里塚」という言葉に出会います。一里塚とは、江戸時代の主要街道に1里ごとに築かれた土盛りの道しるべです。1里は36町、今の距離で約3.9km。旅人はその塚を見ながら、自分がどれだけ歩いたか、次の町や宿までどのくらいあるのかを確かめていました。

一里塚は、ただ昔の道路脇に置かれた目印ではありません。日本橋を起点に距離をそろえ、江戸幕府の交通網を見える形にした装置でもありました。今も土のふくらみや榎の木、石碑として残る場所を訪ねると、江戸の旅が「地図の上の線」ではなく、足で刻む距離だったことが実感できます。

一里塚とは

一里塚とは、江戸時代の主要街道に約1里ごと、約3.9kmごとに築かれた距離の目印です。旅人にとっては、いまでいう道路の距離標識に近い存在でした。長い道のりを歩くとき、何km進んだのかが分かるだけでも気持ちは大きく違います。一里塚は「この道はどこへ続き、いま自分はどこまで来たのか」を体感的に知らせる、街道の基準点でした。

江戸時代の旅は徒歩が基本で、馬や駕籠を使う人でも道そのものは同じように進みます。そのため1里という単位は、机上の数字よりも「ひと区切りの歩行感覚」に近い意味を持っていました。健脚なら1里は1時間ほど、荷を持つ旅人や天候の悪い日にはもっと長く感じられたはずです。一里塚は、そんな旅の時間感覚を揃える存在でもありました。

一里塚は何のために作られたのか

一里塚が作られた第一の目的は、距離を示すことです。宿場から宿場へ、あるいは橋や渡し場へ向かう途中で、旅人、商人、飛脚、役人たちは次の目標までの残り距離を知る必要がありました。とくに荷を運ぶ商人や書状を急いで届ける飛脚にとって、距離感は時間の見積もりそのものです。参勤交代の行列でも、休憩や行程の目安として一定の距離基準があることには大きな意味がありました。

街道沿いには土を盛って塚を築き、その上に榎、松、杉などの木が植えられました。木があると遠くからでも塚を見つけやすく、平坦な道でも目印としてよく目立ちます。枝が広がる木は木陰をつくり、旅人が息を整える場にもなりました。つまり一里塚は、単なる道標ではなく、歩く人を支える実用的な施設でもあったのです。

日本橋を起点に整備された江戸の交通インフラ

江戸幕府は、日本橋を五街道の起点とし、東海道中山道・日光街道・奥州街道・甲州街道へと道を延ばしました。慶長9年(1604)には、徳川家康が一里塚の築造を命じたとされます。これは単に道に印を付けたというより、江戸を中心とする交通秩序を形にした施策と見るほうが実態に近いでしょう。

起点を日本橋に統一した意味は大きく、江戸から見て何里の地点にあるかが共有されることで、人や物の移動を同じ尺度で把握できるようになりました。宿場の位置、行程の計画、荷駄の輸送、公用の移動まで、距離の共通基準があることで街道は「つながった制度」になります。一里塚は、宿場、橋、並木、伝馬制度と並ぶ、江戸幕府の交通インフラの一部でした。

一里塚の形と特徴

一里塚は、街道の左右に一対で築かれるのが基本です。道をはさんで向かい合うように塚が置かれるため、旅人はどちら側を歩いていても距離の目印を確認できました。現地では、道の両側にこんもりとした盛り上がりが残っているか、片側だけでも塚の形が分かるかを見ると、当時の街道景観を想像しやすくなります。

ただし、今残る一里塚は同じ姿ではありません。両側そろって残るものもあれば、片側だけが残るもの、塚は失われて石碑や案内板だけが立つもの、地域整備の中で復元されたものもあります。明治以降、鉄道が長距離移動の中心になると、街道の役割は相対的に下がり、さらに道路の拡幅や都市化で塚が削られた例も増えました。現存例は、そうした変化をくぐり抜けた貴重な痕跡です。

現存する一里塚の見どころ

現存する一里塚を見るときは、塚だけを単体で眺めるより、旧街道との位置関係を意識すると面白さが増します。旧東海道の品濃一里塚は、東西の塚がほぼ向かい合って残る代表例です。中山道の垂井一里塚は片側のみですが、かえって「片側しか残らなかった歴史」を想像しやすい現地です。奥州街道の須賀川一里塚のように、両塚が残る例では、街道のスケール感がよりつかみやすくなります。

都内でよく知られる西ヶ原一里塚も見逃せません。文化遺産データベースでは、慶長9年の定めにより江戸日本橋から二里の地点に築かれた岩槻街道の一里塚とされ、道路拡張のなかで保存されてきた経緯が確認できます。つまり西ヶ原一里塚は、「一里塚とは何か」を示すだけでなく、「なぜ現代まで残すのが難しかったか」まで伝えてくれる例でもあります。

観察するときのポイントは具体的です。両側に残るのか片側だけなのか。塚の上に木があるのか、かつての木を示す説明があるのか。石碑や案内板に日本橋からの里数が書かれているか。周囲の旧街道の道幅が広いのか狭いのか、坂や曲がり角が近いのか、近くに宿場町や橋の跡があるのか。こうした点を拾っていくと、一里塚は単独の文化財ではなく、道全体の読み解きポイントだと分かります。

BYGOで一里塚スポットを探すなら、畑宿一里塚旧東海道 関一里塚野村一里塚仙川一里塚跡のように、現地で旧道の流れを追いやすい場所があります。一里塚だけを見て終わりにせず、前後の道筋や周辺の地名、坂、宿場町の痕跡までつなげて歩くと、街道歩きの密度が一段上がります。

BYGOでは、東海道中山道の記事、旧街道沿いに残る歴史スポット、宿場町の解説も紹介しています。街道歩きの前に、近くの歴史スポットを探すと、一里塚を起点に散策ルートを組みやすくなります。

一里塚から見える江戸時代の旅

江戸時代の旅は、速さよりも「刻み」が大事でした。どこで休むか、どの宿まで進むか、どの坂を越えれば次の集落が見えるか。その節目を身体でつかむ旅において、一里塚は「ここまで来た」「次まであと少し」を教える確かな目印でした。歩く旅人だけでなく、荷を運ぶ商人、急ぎの飛脚、参勤交代の列までもが、同じ街道上で同じ距離基準を共有していたと考えると、一里塚の役割の大きさが見えてきます。

現代の私たちは地図アプリで現在地をすぐ確認できますが、街道歩きでは、一里塚のような痕跡を見つけた瞬間に距離の感じ方が変わります。約3.9kmという数字が、画面の情報ではなく、自分の足の疲れや景色の移り変わりと結びつくからです。旧街道を歩きながら一里塚を見つけることは、江戸時代の旅のリズムを追体験することでもあります。

まとめ

一里塚とは、江戸時代の主要街道に約1里、約3.9kmごとに築かれた道しるべです。日本橋を起点に整備され、旅人や商人、飛脚、参勤交代の行列に距離の基準を与えました。塚に植えられた木は目印となり、木陰は休息の場にもなりました。

いま各地に残る一里塚は、江戸の交通制度と旅のあり方を伝える歴史の痕跡です。現地では塚だけでなく、旧道の向き、道幅、坂、宿場との位置関係まで見ていくと面白さが深まります。一里塚は、旧街道を「歩いて理解する」ための、とてもよい入口です。

参考文献・出典