更新日:2025年4月5日
玉川上水(たまがわじょうすい)は、江戸時代に江戸市中への飲料水を供給するために開削された上水道です。その全長は約43キロメートルであり、多摩川の羽村取水口から四谷大木戸までを流れます。玉川上水は、1653年(承応2年)に工事が始まり、わずか8か月後の1654年(承応3年)には通水が開始されました123。
幕府は多摩川の水を江戸に引き入れるため、庄右衛門と清右衛門の兄弟に工事を任せました。羽村から四谷までの間に高さの差を活かし、自然流下方式で水を引く工事が行われました。この工事の大きな困難の一つは、わずか92メートルの勾配を持って水を流すために、約100メートルごとに21センチメートル下げる必要があったことです23。
玉川上水から供給された水は、江戸の飲料水として利用されただけでなく、農業用水や水車の動力としても活用されました。特に、江戸時代には水の需要が高まり、多くの分水路が設けられ、周辺の農業生産を支える役割も担いました12。
現在の玉川上水は、その一部が水道原水の導水路として利用されており、東京都の水道局による管理の下で、再生水も流されています。また、1986年からは清流復活事業により、下水の高度処理水なども流れています。歴史的な背景を持ちながらも、現代においても重要な役割を果たす水路です234。
玉川上水は、近世初期の優れた土木技術の成果として、2003年に国の史跡に指定されました。これにより、その歴史的価値や技術的意義が高く評価されています34。 玉川上水は、江戸時代の重要な水道インフラであり、その開削には多くの歴史的経緯が関わっています。1700年代に入ると新田開発が進み、玉川上水からの水は野火止用水や千川上水といった分水路を通じて、武蔵野地域の農業生産を支えることになりました。特に1712年には特別な農業灌漑用水としても重宝されました24。 また、玉川上水は単なる水道にとどまらず、桜の名所としても知られており、特に「小金井の桜」は江戸時代から第二次世界大戦前にかけて多くの花見客を呼び寄せる名所となっていました3。さらに、桜の花びらが水質を浄化すると信じられ、多くの樹木が水路沿いに植えられました。 現代においても、玉川上水は歴史的な意義だけでなく、環境保全や地域の文化資源としての価値も高まっており、地域市民による保全活動が盛んに行われています。1990年代からは「清流復活事業」により、水の多様な利用が図られ、流域の環境改善に貢献しています34。