甲州街道最初の宿場——「新宿」という地名の起源
新宿という地名の由来をたどると、江戸時代中期の宿場開設にたどり着きます。現在の新宿区の一帯にはもともと徳川家の重臣・内藤家の屋敷地が広がっており、その広大な敷地の一部が返上されたことで、甲州街道に新たな宿場が誕生しました。これが内藤新宿です。
内藤新宿は、江戸日本橋から数えて甲州街道最初の宿場として設けられました。それ以前、日本橋と甲州道中第一の宿場・高井戸の間は約10キロメートルの距離があり、旅人や荷を運ぶ牛馬にとって負担の大きい区間でした。内藤家の屋敷地の一部を返上して宿場を設けることで、この空白を埋めようとしたのです。
宿場開設の具体的な動きは元禄年間に始まります。浅草の商人・高松喜六(喜兵衛)らが宿場開設を幕府に願い出て、5,600両という多額の上納金を負担することで許可が下りました。元禄11年(1698年)に設置が認められ、元禄12年(1699年)に宿場として正式に動き始めました。「新しい宿場」として開かれたことが、「新宿」という地名の由来となっています。
宿場の構造——四谷大木戸から追分まで
内藤新宿の宿場範囲は、四谷大木戸から新宿追分(現在の新宿三丁目交差点付近)までの間に広がっていました。宿場は上町・仲町・下町に分かれ、旅籠屋や茶屋が立ち並んでいました。
四谷大木戸は、江戸の出口を示す木戸(関門)の一つで、ここから先が「江戸の外」という境界線の役割を果たしていました。通行する旅人や物資はここで改められ、治安・流通の管理が行われていました。一方の新宿追分は、甲州街道と青梅街道の分岐点で、旅人が行き先を確認した交通の結節点でした。
この四谷大木戸から追分までの区間に、問屋場・本陣・脇本陣・旅籠が集積する宿場町が形成されました。甲州街道は、江戸と甲府・諏訪・下諏訪を結ぶ主要道であり、多摩・秩父方面の鉱物や農産物が江戸へ運ばれる道でもありました。牛馬や荷を扱う問屋場が機能することで、内藤新宿は甲州街道の往来を支える物流拠点として機能しました。
歌川広重が描いた「四ッ谷内藤新宿」(木曽街道六十九次関連シリーズ)には、茶屋や旅籠が立ち並ぶ宿場の活気が表現されており、当時の様子を今に伝えています。
廃止と再興——宿場の波乱の歩み
内藤新宿は開設から約20年後に一度廃止されています。享保3年(1718年)、高井戸宿との競合問題や宿場維持コストの問題などを背景に、内藤新宿はいったん廃止となりました。
廃止から半世紀余りを経て、明和9年(1772年)に宿場は再興されました。甲州街道の交通量増加や、沿道宿場の負担軽減を図るための政策的判断が再興の背景にあります。再興後の内藤新宿は「江戸四宿」(品川・千住・板橋・内藤新宿)の一つとして位置づけられ、明治維新まで繁栄が続きました。
江戸四宿とは、江戸を出入りする四つの主要街道に設けられた最初の宿場を指します。品川が東海道、千住が奥州街道・日光街道、板橋が中山道、そして内藤新宿が甲州街道——それぞれが江戸の「玄関口」として機能していました。
内藤家屋敷地の継承——新宿御苑へ
現在の新宿御苑は、かつての内藤家屋敷地の系譜を引く場所です。宿場が開設された時代、その周囲には広大な内藤家の屋敷地が広がっており、明治以降に新宿植物御苑(農事試験場)として転用されました。明治39年(1906年)に宮内省管轄の庭園となり、戦後に国民公園として一般公開されたのが現在の新宿御苑です。
宿場の範囲(四谷大木戸〜追分)と、内藤家屋敷地(現・新宿御苑)は厳密には重なりません。新宿御苑は宿場そのものではなく、その隣接地として広がっていた屋敷地の系譜を伝える場所です。この二つを組み合わせることで、内藤新宿の時代の空間的広がりをより立体的に理解することができます。
歩いて確かめる(60〜90分)
内藤新宿をたどる散策は、四谷大木戸跡から始めるのが順序に合っています。
地下鉄丸ノ内線「四谷三丁目」駅を出て、新宿通り(旧甲州街道)を新宿方向へ歩きます。四谷大木戸跡碑周辺が宿場の東側の起点で、ここから先が内藤新宿の範囲です。現在の新宿通りは旧甲州街道の道筋をほぼ踏襲しており、歩きながら江戸期の宿場の構造を想像できます。
新宿三丁目の交差点付近が旧「新宿追分」にあたります。甲州街道と青梅街道が分かれる地点で、かつては道標が置かれ、旅人が行き先を確認した場所です。現在の交差点はその面影はありませんが、道路が鋭角に分岐する地形に旧街道の名残が読み取れます。
追分を過ぎたところで新宿御苑方向へ向かうと、内藤家屋敷地の系譜を受け継ぐ広大な庭園が広がります。四谷大木戸から追分を経て新宿御苑まで歩くことで、宿場の範囲と屋敷地の広がりを、現在の地形の上で重ね合わせることができます。
「新宿」という地名が語るもの
内藤新宿の歴史は、新宿という地名の起源を知ることを出発点に、江戸時代の街道・宿場・物流・都市形成を読む手がかりになります。
「新しい宿場」を意味する「新宿」という言葉は、元禄年間の開設がなければ生まれませんでした。広大な内藤家屋敷地の一部が返上され、商人・高松喜六らの働きかけと5,600両の上納によって宿場が開かれた——この出来事が、現在の新宿という大都市の名前の起源です。
享保年間の廃止と明和年間の再興を経て、江戸四宿の一つとして幕末まで機能した内藤新宿。その空間は現在の新宿三丁目・四谷三丁目周辺に重なり、地形の上に歴史の痕跡を読み取ることができます。