更新日:2025年4月5日
本陣(ほんじん)は、江戸時代以降の宿場町で、主に大名や公家、幕府役人など身分の高い者が宿泊するために設けられた公的な旅宿のことを指します。これにより、平和な旅が実現され、また、宿場町の発展にも寄与しました。
本陣の制度は、特に寛永11年(1634年)に将軍徳川家光が京都に向かう際、宿泊予定の邸宅の主人を「本陣役」に任命したのが起源とされています。この時期に参勤交代制度が導入され、各地の名士や旧家が本陣として指定されることになりました14。 本陣は、最大の格式を持つ宿泊施設であり、原則として一般の者は宿泊できず、利用者は事前に予約をし、宿泊に際してはその宿泊者の名前を「関札」と呼ばれる木製または紙製の看板に掲示しました134。
本陣には表門、書院、食事を提供するための台所、広い庭があり、一般的に200坪程度の広さを持っていました。利用者は一組しか貸し切れず、宿泊が重ならないように完全予約制が採用されました。特に、皇族や高位の官人は例外として優先的に受け入れられることが多かったです13。 宿泊する際には、宿役人が宿泊する家を指定し、宿泊者の身分に応じた特権や優遇措置が与えられました。しかし、宿泊料金はあくまでも謝礼として位置づけられており、十分な対価とは言えなかったことから、本陣の経営は厳しいものでした124。
幕末になると、参勤交代制度が形骸化し、また明治維新によって本陣の制度が廃止されることとなります。明治3年(1870年)に本陣の名称が正式に廃止され、制度としての本陣は消滅しました134。
現在、本陣の建物の多くは取り壊されてしまいましたが、重要文化財として保存されているものもあります。観光資源として利用されることも増えており、地域の歴史の一端を知るための貴重な文化遺産となっています14. 本陣には、通常は300坪以上の大きな建物も存在し、訪れる高位の宿泊者に対してはその格式に見合った豪華な作りが求められました。また、宿泊者によっては、特別扱いとして、本陣の主が宿泊者のために地元の特産物を提供したり、食事においてもその地の名物を取り入れた特別メニューを用意することが一般的でした。 本陣には、「脇本陣」と呼ばれる第二の宿泊施設が併設されていることもあり、これにより本陣が満室の場合や特別な事情がある場合に、宿泊者を脇本陣に振り分けることが可能となっていました。脇本陣は本陣に準ずるものでありながら、一般の旅籠の要素も併せ持っており、通常は一般の旅人も受け入れることができました23. 参考までに、本陣を運営する家は通常の商家とは異なり、特定の格式を持つ家が選ばれ、成功した運営で得られる収入のほかに、場合によっては大名からの寄付や補助を受けることもありました。地域によっては、宿泊者が増えることで経済に大きな影響を与えることもありましたが、逆に経済的な打撃や天災などがあった場合には、経営が非常に困難になった例も多くありました12。