更新日:2025年4月5日
日比谷入江(ひびやいりえ)は、現在の東京都千代田区南東部の日比谷一帯を中心に、江戸時代初頭まで存在していた入り江です。江戸湾(東京湾)の北西部に位置し、新橋付近を湾口とし、北に向かって延びていました。この入江の最奥部は現在の大手町にあり、歴史的には平川(現在の神田川)の河口がここに存在していました。
江戸時代以前
日比谷入江は、徳川家康が関東に入国する以前から存在しており、地域は低湿地でした。入江は湿地を形成し、江戸時代初期には漁場としても利用されていました。この地域の大部分は海や湿地で、当時の住民たちは漁業に従事していました。
埋立工事と町づくり
家康が江戸を開府した1603年から、日比谷入江は大規模な埋立工事の対象となりました。埋立は軍港としても利用され、その後大名屋敷や武家屋敷が建設されました。日比谷入江の埋立ては、1614年には「西丸」の築城工事の残土を使用して始まり、その後1620年代から本格化しました12.
埋立の結果、現在の日比谷公園や皇居外苑の一部などが造られ、その名残として日比谷濠や馬場先濠が残っています。特に、日比谷濠はこの地域の旧入江を示す重要な地形です。
現在の東京都千代田区日比谷は、日比谷入江が形成していた湿地帯や水路から発展した場所であり、商業、文化、情報の発信地として知られています。また、明治中期には日比谷公園が設立され、今でも多くの人々が集う貴重な緑地として親しまれています。日比谷公園は、日本初の洋風近代式公園とされています24.
日比谷入江の存在は、江戸時代の町づくりにおける重要な要素となり、その後の都市計画や地域開発においても影響を与えました。今日の東京の発展を理解する上で、日比谷入江の歴史は欠かせないものとなっています。 日比谷入江は、当初は海と湿地に囲まれており、漁業から江戸市民の生活にも密接に関わっていました。 埋立工事は、1690年代まで続き、江戸幕府の中央集権的な政権運営を支えるために行われました。この工事により、日比谷入江は軍港や商港の機能を失い、商業エリアへと転換されました。 さらに、日比谷入江の埋立ては、江戸の町づくりの一環として、江戸城を中心とした防衛や水路の整備の目的でも進められました。この背景には、当時の権力者である家康の大規模な都市計画があったということが重要です。 また、日比谷入江周辺は、文化の発信地にもなり、明治中期以降は外国の賓客を接待するための場所としても発展しました。この時期には、日比谷公園が設立され、東京の重要な文化施設や劇場も立地するようになりました。日比谷は今日においても、情報・文化の発信地として多くの人々に親しまれています。